話らしい話

長田 他の方のも含めて、いろんな短編アニメーションを、その後いくつか観たりもしたんですけど、加藤さんの《或る旅人の日記》。僕、あっちも大好きなんです。

 《或る旅人の日記》は、ちょっと言葉を入れるじゃないですか。絵本じゃないですけど、言葉と絵を断絶して、言葉を立たせて、交錯させながら観せていくじゃないですか。

《或る旅人の日記》 ©ROBOT
旅人トートフ・ロドフが、幻想の国トルタリアを旅する物語の短編集。
《或る旅人の日記》の一部分 ©ROBOT

長田 この原作は、加藤さんが考えられたというよりも、また共同作業でっていう感じですか?

加藤 《或る旅人の日記》の場合は、話って話はないんですけど、もとから自分がつくってました。2002年くらいからつくってて、2003年に公開してます。

 その当時は、インターネットでようやく簡単な動画が観られるっていう時期です。まずネット回線も、今みたいにHDの動画が観られるっていう環境に全然なっていなくて、すごくシンプルな映像だったら観られるっていう時代です。《或る旅人の日記》みたいなすごく軽いデータでも、環境によっては、ものすごくカクカク見えたり。そういう物理的な制限はあったんですね。

 プロデューサーからは、あまりコマ数をかけない、すごくシンプルな、リミテッドなアニメーションでつくってくださいっていうオーダーがありました。

 それを解消させるために、とても制限された枚数、動きにして、あとは補足として少し言葉を入れて。本当に絵本とアニメーションの中間みたいな感じでつくったっていう感じですね。

長田 今、「話らしい話じゃない」って仰ったじゃないですか。それ、僕、すごく気になってたんです。

 長編や中編の映画とか、小説とか、舞台でもそうだと思うんですけど、結局、起承転結ってあるじゃないですか。それはエンターテインメントっていう要素でもあると思うんですけど、どっちかっていうとちゃんと「話がある」と思うんですよ。

 それで《或る旅人の日記》を見始めたときは、正直、まずはストーリーとしてどうなっていくかに心が向くんですよ。「これから、どうなっていくんだろう?」って思う。でも結局、どうもならないじゃないですか。

加藤 そうです、そうです(笑)

長田 各話、どうもなってないっていうことが、オムニバス形式で表されている。しかも、それぞれの話同士には飛躍があるから、どの順に観ても変わらない。

 それにしても、加藤さんはなぜ短編を軸にやってらっしゃるんですか?

加藤 えーっと、そうですね……。

 今のところ、短いものが中心だし、それこそストーリーってものに、どんどん興味がなくなってきてるんですよ(笑)

 ただ、もし会社に所属してて、企画書を出すってなると、やっぱりそこを求められるんですね、どうしても。とくにオリジナルだったりすると、短い作品であっても、やっぱり「これ、誰のためにつくるの?」とか、「これを観て、人はどう感じるんだろうね」みたいなことを言われる。

 客観的な、正直な意見として、それは正しいっていうか、そういう意見はすごくわかるし、それでなかなか企画が通らないっていうのも、すごくわかるんです。現実的なお金の問題もあるし。

 でもやっぱり、なんていうのかな。とくに今、本当に、いろんなものが世に出ている時代に、もっと主観的につくれるんじゃないかと思って。話の筋とか関係なくて、例えばただボールを蹴る芝居だけで、観客が面白がれるアニメーション作品がつくれないだろうか……、みたいに思ってるんですよね、どっちかっていうと。

 それを持続して見せるためのストーリーが必要だと思う人は、とってもたくさんいるし、ほとんどの人はそうだと思うんだけど、そうじゃない形で、興味を失わせないようにすることも、できるんじゃないかなって。むしろストーリーは、邪魔になるんじゃないかとすら考えているんですよね。今とくに、そう思っていて……。

 やっぱり作品自体は面白くなきゃいけないでしょうけど、自分がアニメーションをつくってて、「これなんだ! この動きなんです!」っていうのを、観る人がなんか面白がってくれないかなっていう感じなんですよね。

長田 プロデューサーの方は「『これ』ってなんですか?」ってなるわけですよね。たぶんね。

加藤 ええ(笑)

長田 「すみません、企画書に書けません」みたいなことだと思うんですけど(笑)

 でも僕は鑑賞者として、《つみきのいえ》のパイプを拾いたがってるおじいさんの所作に、むしろ、彼の背景のストーリーを感じます。


記憶や経験から生まれる「動き」

長田 加藤さんの《或る旅人の日記》や《つみきのいえ》を観ていると、「とりあえず十何分でキッチリまとめました」というよりも、細部のこだわり、異常な癖(へき)みたいなものが、随所に表れていて……。

 それはたぶん、今、仰った「動き」ってものが、わりとキーワードになると思うんです。

加藤 そうですね。

長田 「動き」に対するこだわりってものが、かなり感じられたんです。

 ご自分で考察されてないことかもしれませんが、例えば故郷の鹿児島の生まれ育ったところとか、東京とか、いろんな景色や光景を、これまで見てこられたわけじゃないですか。会社だとかどんなところでも。そういう「実物」的なものから情報が積み上がって、アニメーションの「動き」に繋がっているのか。それとも、どちらかというと、空想で遊ばせてできているのか。どうなんだろうなと思ったんですよね。

加藤 そうですね……。

 難しいとこなんですけど、とくに20代なんかは、非常にリアルな世界に対する反発みたいなものがあって。

長田 「リアリズム」みたいな?

加藤 そうですね。暗い事件とか、現実的な問題とか、それについては考えなきゃいけないし、現実ということで、受け入れなきゃいけない事柄ってたくさんあるんですけど、それに対してもっと非現実的なものの力で、何かできないかなって思いがすごく強かったんですよ。それでずっとこう、いろいろ試行錯誤してたとこなんで。

 でもまあ、僕は人物画がだいたい中心なんですけど、やっぱり「動き」をつくる、描くってことになると、実体験っていうか、自分の記憶や観察を、すごく頼りにしてつくっていく作業にはなるんですよ。

 「自分の記憶」ってものは大事なキーワードになる。《つみきのいえ》以降に「自分の記憶」というものをモチーフにして、短編集を描いたんです。

 なんかこう、引っかかってる記憶って、みんな、たくさんあるじゃないですか。で、その個人的な記憶をいろんな形で表したいなと。そう思い始めたのが30代です。

 で、そこからファンタジーに立ち返るのもありだと思うし。でも実感というか、もっと生々しいものから、1回始めてみようという思いが、その後のいろんなアニメーションとか絵本とかに繋がっていってるんです。

 だから本当に、ご質問のように「記憶」っていうものを、とくに30代からは意識してきました。

 あと、「動き」をつくるのでも、例えば「このボールを蹴っている子供は、どういう子か」みたいなことを、若い頃よりも、より考えながら描き始めたっていう感じではあるんですよね。

 若い頃は、キャラクターを俯瞰して描くことが多かった。

 もともと「寄り」で表情を描くっていうよりは、「芝居」を描きたいっていう思いもあったりして、「引き」で描くことが多いんです。でも最近は、対象から非常に引いた目線で描いていても、その人がどういう気持ちで動いているか、芝居をしているかってことを、より考えるようになりました。

 それは自分の見た記憶だったり、経験したことの記憶だったりっていうのと、繋がってはいると思うんですよね。

長田 迫りたくなるんですね。

加藤 そうですね。

長田 「俯瞰」て、観る側に解釈をゆだねる部分があるじゃないですか。

 加藤さんの言う「寄り」って、「加藤さんが自分の実体験をもとにアニメーションを描くこと」を強めるんですかね。

加藤 結果的にはそうなるかもしれないですね。

長田 「寄り」の作品も観てみたいですね。

 映画《つみきのいえ》は、わりと「俯瞰」ですもんね、全体的な描き方が。

加藤 そうですね。どっちかっていうとそうですね。

 基本的に「俯瞰」ていうのを、つい描いちゃうんです。客観的に描くっていうのは、やっぱりちょっとこう、癖(くせ)みたいなところもあって。引いた視点だからこそ、あまり迫らないからこそ、観ている人もいろんな余白に入っていけるんじゃないかと思ってました。

 でも、最近はそれだけじゃ、ちょっとダメかもしれないっていうか、なんかそこは「俯瞰」にゆだね過ぎなんじゃないかと……。もうちょっと違う感情的な部分というか、そういうのも今後のアニメーションにしたいなとは思ってるんです。

長田 今後つくるものというのは、基本は短編作品でという感じですか。

加藤 そうですね。短編でとりあえずっていう感じではあるけど……。

絵本でアニメーションをやってしまう

長田 駅のホームで子供2人が迷う作品(絵本『えきのひ』)。あれはアニメーションにされてないんですか?

加藤 してないんですよ。絵本だけなんです。

『えきのひ』(白泉社、2014年) ©ROBOT

長田 後半のわりと言葉がなくて、2人がわあーっと駅のなかを駆け巡るところ。あれを観たら「あっ加藤さん、絵本でアニメーションし始めたな」と思いました。コマ割りのやり方も、すごく斬新ですけど、「所作」っていうのが見えてくる。『つみきのいえ』とは別のやり方をされてるなって感じたんです。

加藤 そうですね。

『えきのひ』後半部分のページ ©ROBOT

長田 実験ばっかりされてますね(笑) 今度は絵本で、言葉に頼らず、絵で観せられているなと思って。

加藤 いやいやいや。

 まあ実験をすると、失敗もたくさんあって……。『えきのひ』では、駅で姉弟が迷う「時間」そのものを絵本にしたかったんです。

 やっぱり膨らんでくるイメージは、止まった絵の断片ではなく、映像なんです。絵本はそこから削ぎ落とす、断片にしていくっていう、どうしてもそういうつくり方になってて。違うつくり方も、これからできるかもしれないんですけど……。

 アニメーションをつくってる人が絵本をつくるってことで、面白い本ができないかなと考えてはいます。ただ、なかなか絵本は難しいなっていうのはありますよね。

 長田さんは本当にたくさんつくられていて、すごいです。

長田 いや、それは、ある意味僕も実験してるっていう作業があると思うんです。

 誤解を覚悟して言ったら、絵本というのは、誰にでもできるって良さがあると思うんですよ。

 例えば短編のアニメーションという世界に入り込んだ加藤さんが、1回そこから抜けて、絵本を描く。そのなかで加藤さんは、さらに実験して違うものが見えてくるわけですよ。

 で、漫画家の人が絵本を描くってなったら、また違うと思うんです。

加藤 違うでしょうね。

長田 僕の解釈からすると、絵本はあまりにも気楽過ぎるのかなって思うんですよ、媒体として。

 だから絵本に着手するっていう意味だったら、個人的にできる。人を使っても、使わなくてもいい。気楽ですよね。

加藤 そうですね。

長田 簡単に入り込めるけど、入った人はみんな「難しい」って言う。この絵本の要素って、他にはなかなかないなって思ったんですよね。加藤さんや、いろんな方が挑戦してらっしゃると思うんですけど、僕はもう、その気楽さゆえに入っちゃったんですよね(笑) とりあえず、絵本やってみようってところで。

世界観を提示する 

加藤 でもすごいですよ。対談の事前にお送りいただいたモノトーンの三部作(長田著「アカルイセカイ」三部作絵本)とか、あれよく、出版したなっていうか……。あんな実験的な絵本、なかなかないですよね。

アカルイセカイ三部作 (共和国、2018、2019年)

『すてきなロウソク』『きらめくリボン』『いてつくボタン』による三部作。
『すてきなロウソク』の主人公パロムと、彼をとりまく人々が描かれる。

長田 あれは、編集者が僕の実験的な感覚を理解してくれる人だったんですよ。

加藤 素晴らしいですね。

長田 事前にお送りしたのは、アニメートの頭をもっていらっしゃる加藤さんがどう見るんだろうって、ものすごく気になってしまったからなんです。

 アカルイセカイ三部作は、僕の他の作品とは違って、完全に、短編アニメーション映画を意識してつくっているんです。だから、この《つみきのいえ》の絵本化とは逆なんですよね。

 あの三部作は、読み手の世界を広げることを前提につくっています。本のなかで意図的な行間を用意して、ストーリー上、「ここ」と「ここ」と「ここ」っていうふうに、スタンプを押すような画面作りにしたんです。

『すてきなロウソク』の一部

長田 要は、僕の念頭に「所作」がないわけです。あえて「所作」を削ぎ落として、ドライにしてやってる。でも、絵本を見た加藤さんの頭のなかでは、いろいろ動き出すんじゃないかなという気持ちもありました。

 僕は自分の頭のなかで、アニメートはできないんですよね。どちらかというともっと、雑な動きなんですよ、僕がやったら。

 この『つみきのいえ』を絵本で読んだときに、1回作業として、あのアニメーションを忘れてみて、それで頭のなかで、おじいさんたちを動かそうとしたらどうなるんだろうと、やってみたけど、やっぱり加藤さんのアニメーションと違うんですよね、フォーカスの仕方が。

加藤 なるほど。あの三部作については、まず印象ですが、絵本として僕は読んで、すごく大胆なことをやってるなって思いました。やっぱり、かなり計算してつくっているんだろうけど、あの飛んでいく感じ。飛躍していく感じが、とても面白いし。でもアニメーション的でもないし、絵本的でもないしっていう……。うん、面白かったですよ。

長田 そうですか。

加藤 でも説明的な言葉も絵も使ってないという意味では、映像的なのかな……。

長田 僕はあの三部作に対しては、とくに補足する言葉も持ち合わせてないんですけど……。

 もともとは言葉とか、そういうものを排除して、本当にあの世界観というものを提示できたらなと思って。でも結果として、作品としてのストーリー性が強くなってしまったかなぁ……と。

 パイプを落としてみたかったんですけどね、僕的には(笑) 言葉のない実験を、ね。

加藤 あはははは。

長田 大工道具でも良かったんですけどね。

 さっきの「所作」みたいなところは、絵本は難しいんですよね。どうしてもね。

加藤 うーん、そうですよね。難しいですよね。

長田 所作っていうミクロな部分に寄っていくってことは、逆にいうとやっぱり、ストーリーから離れていくっていうことにもなるじゃないですか。僕もやりたいんですよね、そういうこと。

加藤 そうなんですよね。

 それをどう面白くできるかって考えるのも面白いし、難しいけど、そっち方向で考えていたいなって感じが僕もあるんですよね。いかにも、形にならない方向っていうか。でもそれ、長田さんは三部作でやってる感じがすごくあって。

 なんか、「絵本つくる気あるのかな、この人」みたいな……。

長田 あります、一応(笑)

加藤 それは新しい絵本に繋がると思うんですけど……。面白かった……。

 自分でアニメーションやられたらどうですか?

長田 絶対に嫌です。

 「絶対に嫌です」って言うのは、加藤さんを見て諦めたっていうのがあるんですよ。最初に《つみきのいえ》を観て、無理だって思いましたもん。

加藤 いやいやいや。

  でも絵本作家が描くアニメーションも観たいですけどね。

長田真作×加藤久仁生(3)に続く